moNo’s note

最近読んだ本,観た映画など,気ままにメモします.

コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ/緒方壽人(2021)

オーストリア生まれの哲学者イヴァン・イリイチ - Wikipedia (Ivan Illich, 1926/9/4-2002/12/2)が提唱した「コンヴィヴィアル」を現代のテクノロジー,特に情報技術に照らし, 「ちょうどよくて」「つくれて」「手放せる」,人間・情報・もの・自然が「ともに生きる」ことができる,そういうテクノロジーを目指すべきではないか,という趣旨の本.良書.

convivialは,元はラテン語con(共に)+vivere(生きる)で,日本語では自立共生と訳されるらしい. 異質なものが共存し楽しく過ごす,という意味で使われたことがあるせいか,weblioでは「宴会,懇親的な」と意訳されている.

イチリチのいうコンヴィヴィアルとは,人間が自らが生み出した技術や制度といった道具に隷従させられているとして,行き過ぎた産業文明を批判した.そして,未来の道具はそのようなものではなく,人間が人間の本来性を損なうことなく,他者や自然との関係性のなかでその自由を享受し,創造性を最大限発揮しながら共に生きるためのものでなければならない,という指摘をいう.道具への依存したり,操作されたり,隷属している状態を問題視している.

この本は,イチリチを再発掘し,現代の要素を加えたり解釈を加える構成. 内容は,主にはテクノロジーだが,言葉や公共など様々な要素まで言及されている. その理由は,そもそもイチリチの提唱した「コンヴィヴィアリティのための道具」の道具が教育や政治など,広い範囲に及んでいることに起因するのであろう. そのため,この本のポイントは,イチリチの提唱した「二つの分水嶺」と,分水嶺の間にある「ちょうどよい状態を評価する6つの視点」だと思う.

分水嶺」は,著者がかみ砕いた一文(p.39)が分かりやすい.

わたしたちがその道具を主体的に持って使ってる間はよいが,あるところから知らず知らずのうちにわたしたちはその道具に支配され,主体性を奪われ,いつのまにか道具に使われているような状況が生まれる.わたしたちはいつのまにか移動"させられて"いたり学"ばされて"いたり,医療を受け"させられて"いたりしてはいないだろうか?とイリイチは問うのである

要するに,人間の拡張のための道具である範囲は有用だが,デザイン次第で人を思考停止に陥れる可能性がある. そのため,道具の「バランス」を見極める重要性を説いている.

そのバランスを評価する「6つの視点」は次の通り.

  • 生物学的退化:人間が自然環境から人工的な環境でしか生きられなくなり,自然に戻れなくなる状態
  • 根源的独占:道具無しには生きていけなくなる状態(生物学的退化も一部重複する?)
  • 過剰な計画:計画者と従う者に分業化し,人間から創造性・主体性を奪う
  • 二極化:独占する側,される側.計画する側とされる側など.
  • 陳腐化:過剰な道具の更新によって,新しいものがよい,古いものは時代遅れ,とする.イチリチ曰く「科学の探求と産業の発展は同一視すると科学の進歩を妨げる.」
  • フラストレーション:丁度良い分水嶺を超え始めると,個人の生活の中でフラストレーションという形で現れる

これら「6つの視点」を質問形に言い換えた筆者の解釈も非常に明快である. (本文ではX=そのテクノロジー,と書かれているが,あえてXとした.)

  • Xは人間から自然環境の中で生きる力を奪っていないか?
  • Xは他にかわるものがない独占をもたらし,人間を依存させていないか?
  • Xはプログラム通りに人間を操作し,人間を思考停止させていないか?
  • Xは操作する側とされる側という二極化と格差を生んでいないか?
  • Xはすでにあるものの価値を過剰な速さでただ陳腐化させていないか?
  • Xにわたしたちにフラストレーションや違和感を感じてはいないか?

自分自身に問いかけると,毎年更新されるapple製品にヤキモキしていた日々,防災減災分野の「過度な」計画,日々youtubeを見ていて感じる解消されないモヤモヤなど,幾つか思い当たる節がある.

興味深いのは,道具のバランスを取り戻すヒントとして,イチリチが「科学の脱ブラックボックス化」「言葉の再発見」「政治や法に主体的に関わる」に言及している点. 脱ブラックボックス化は,自分でそのXをばらし,くみ上げ,理解可能なことを指す. 言葉については,本書の中で,人同士が共に生きるのに手がかりとなりそうな「寛容」「責任」「信頼」を取り上げている. 政治や法については詳しく言及されていないが,参加型社会のような形がその一つであろう.


その他,示唆深い記述がいくつもあったので,箇条書きでメモする.

  • 働く→仕事,学ぶ→教育,動く→移動,など,名詞化によって,それを商品として消費・所有したがうようになる.
  • 自ら考えたことをやめた人間は常に知識を外に求め,自分が知っていることが真実であると教えてもらいたがるようになる.

分業化を進めたうえで,自分のコンフォートゾーンから出る胆力が無くなっていく.

  • イチリチの指摘したshadow workとは,金銭的な対価が得られる労働に対して,家事,育児,介護といった家庭内で行われる労働,さらには社会システムの要請によって行われる通勤通学といった移動,学校で行われる勉強,病院への通院といった,商品の生産や賃金労働が成立するために不可欠な労働的な行為.著者は,現代のSNSはユーザーがshadow wordしていると指摘している.
  • 監視資本主義(netflix)からの引用,if you're not paying for the product, then you are the product.…道具じゃないものは要求をしてくる.誘惑し,操り,何かを引き出そうとする.…

全てを貨幣価値に変換するなら,確かにSNS無償労働. ただ気をつけておきたいのは,「SNSの問題はバランスを欠き始めている」という点. 本来,緩やかに人々がつながる手段,プラットフォームとしては,中国や台湾,ウクライナ・ロシアなどにみられるよう,新たなコミュニケーション手段として一定の意味はあると思う. つまり大事なのは「よいバランス」を取り戻すこと. 人々を引き付ける仕組みが内包されているなら,それを認識し,ユーザーが調整できるようなプラットフォームがよいはず. UIとSNSの基盤技術は切り離されてしかるべきであり,UIはユーザーがカスタマイズ可能なものであって良いと思う.

  • 自律性のヒント「オートポイエーシス」=自分で自分を作り続けるシステム=身体だけでなく自分で自分の意味を作り続ける存在.
  • 予測符号化理論=内部モデルをもち,その予測と現実の差のみを脳に送っている説.
  • 自由エネルギー原理=予測誤差最小化と最小化に掛かるエネルギーの最小化.

学術的用語たち.このほか,深層学習も取り上げられている.個人的には「意味」を作り続ける存在であるという話が興味深い.下記にそのまま引用する.

哲学者の原島大輔さんは,『AI時代の「自律性」』の中で,そのような人間の自律性を「生きられた意味と価値の自己生成」と表現している.わたしたちは,まずこの混沌とした偶然に満ちた世界を「自ら(みずから)」生きてみる.生きてみて,生きられたことで「自ずから(おのずから)」意味や価値が生まれ,生まれた意味と価値を足場にまた「自ら」生きてみるのである.この「自ら」と自ずから」の繰り返しの中で意味と価値が生まれていくことこそが人間の自律性なのであり,そこで言う「自律性」には,実は「自由(自らに由る)」という自律と「自然(自ずから然る)」という他律とが含まれているのである.

  • 今のデジタルツインに足りないのは「現実の問題」へ対処する応答性であり,行為すべき理由を詮索する前に,思わず(道路に飛び出した)少女に手を差し伸べること.ここで問われているのは,状況に即座に対応できる「responsibility」である」

人工物を社会にれる際の障壁でもある.特に日本人のネガティブ社会では難しい.トロッコ問題などにも通ずると思う. 実績を積むことができれば,人間と同じよう裁かれる日が来るのだろうか?

  • 地球のためにと考えるのではなく,未来の人間を含めるほうが現実的で受け入れやすい

そういえば一時期,将来の世代に負の遺産を残してはいけない!,ってよくメディアで聞いた気がする. googleトレンドで調べた限りは,日本では2016年7月にピークがあるが理由は不明.若干右肩上がりの傾向だが大きくは内.気のせいか…?

googleトレンド「負の遺産

  • 環世界の自律主体をつなげるのは言語であり,わたしたちが共に生きる手がかりになるのは,「寛容」「責任」「信頼」の概念のアップデートではないか?
    • 寛容=「正しさ」には誤りがあることを前提に,「正しさ」と「寛容さ」の議論を丁寧に切り分けること,不寛容の裏返しとしての「恐れ」を取り除くこと
    • 責任=自立とは依存しなくなることではない.依存先を増やしていくこと
    • 信頼=法,ルール,貨幣,科学,メディア,といったシステムへの信頼.現代はこれが揺らいでいる.社会を開かれた状態にして,複雑なものを受け入れるのはどうすればよいのか?ここに答えはないが,工夫はある.例えば,あえて自分とは異なる傾向の記事を見せるなど.

自己責任=依存先を増やすこと,というのは,目から鱗. しかし確かに,自分でできないことを自覚して,頼れるところを頼る,というのが実際のところ. 自己受容にもつながる話ではないか? 寛容さについては,アドラーのいう「課題の分離」に近い話題であり,これもまたバランスの問題を抱えている. 本書の中でも「絶対的な正しさが存在しないとしても,だからといって極端な相対主義に陥ってもいけない」と指摘している.

  • オンライン・オフラインコミュニケーションの違いは「逃げられなさ」.つまり,意識を相手に集中せざるを得ない状態で,We-mode,共に当事者になる.他人視点ではなく,当事者にならざるを得ない,という点.

非常に示唆深い. 日常的なコミュニティから脱し別のバーチャルコミュニティへ行く,だけでは不足で,そこに意識を集中することができて,初めてメタバースと言えるのだろう. そういった意味では,研究の話をして日常から離れているあの感覚も近い概念だと思う. 掲示板をROMる,youtube liveを見るのも,簡単に離脱できるという意味で,「今ココ」が抜けているいるのだろう. この辺りはすごく腑に落ちる.


イチリチの提唱する概念はシンプルである一方,各論に答えは見つからない. しかし,現状の要素を傍観するのに非常によい本だったと思う.