moNo’s note

最近読んだ本,観た映画など,気ままにメモします.

巨大災害のリスク・コミュニケーション/矢守克也(2013)

よくあるリスク・コミュニケーションや自助公助共助ではなく,その先に進むヒントを与えてくれる(かもしれない)一冊.

災害情報のダブル・バインド

  • メタ・メッセージ

「お前,ほんまあほやなぁ」というメッセージに対し,何を受け取るか? 愚かだ,という字面の意味だけでなく,次から気をつけろよ,等の別の意味,いわゆるメタメッセージも含まれる.

親が子供に「自立しなさい」と言うとき. メッセージは「自立せよ」だが,メタメッセージは「自立せよ,という指示に従え」となり矛盾する. この矛盾するメッセージは,子供の身動きを取れなくする. また,この場合,親の側も身動きが取れなくなる. 親視点に立つと,子供が変わらなければメッセージが伝わっておらず,子供が自由奔放に振る舞うとメタメッセージを逸脱するように見える. そのため,子供の振舞いに関わらずメッセージが伝わらないことになり,身動きが取れなくなる.

  • 災害情報では?

災害情報を提供すると,メッセージは災害情報だが,メタメッセージとして「避難はメッセージを待つものだ」「メッセージを作る人と,従う人に分かれる」「災害情報とは,客観的で一意なものだ」という情報を含む. 「情報待ち」で避難が遅れたり,「行政・専門家への依存」を誘発したり,本来,災害の中で決断を迫られるような葛藤や相互に矛盾する事項を見逃す可能性を作りかねない.

「われわれは知ることによって益々不安の材料を増やしている」

参加を促す災害情報ーマニュアル・マップ・正統的周辺参加

  • マニュアルに起こすことによって,役割が分担,ブラックボックス化・専任化が促される.
  • マップそのものよりも,マッピング(防災マップすること)の方が重要である

「安全・安心」と災害情報ー「天災は安心した頃にやってくる」ー

安心をつくるために,安全対策をしたり,専門家や行政にお任せする=外部化する. しかし,現状は「自助・共助」,つまり

専門家や行政職員の側が,「私たちだけに,災害に関するcure(気遣い)を背負わせるのは,もう勘弁してください」

この流れは,

責任主体を社会的に同定し確定しようとするスタイルであり, 訴訟社会(cureの担い手の押し付けあい)や保険社会(cureの担い手の希釈的分散)へとつながる.

この実態が,「天災だ」と災害を神のせいだと言っていたことと何が違うのか. 今求められているのは,社会に暮らす一人一人が,能動的な対象として,リスクを引き受ける社会ではないか.

津波てんでんこ」の4つの意味ー重層的な災害情報ー

  • 自助原則の強調(自分の命は自分で守る)
  • 他者避難の促進(我がためのみにあらず=避難者が現れることで他人も動く)
  • 相互信頼の事前情勢(てんでんこを実施するには,いざというときに助けたい人々(ex. 親類縁者)も「てんでんこしている」と信頼する必要がある=でないと避難せず助けに行くことになる)
  • 生存者の自責感の低減(自責の念を軽減する作用.てんでんこだもの,という亡くなった人からのメッセージとしてとらえる)

「自然と社会」を分ける災害情報ー神戸市都賀川災害ー

安全=社会と,危険=自然は,時間的・空間的にきれいに分かれるものではなく,社会に突然自然が現れることがある. 堤防などの対策や,避難情報は,この二つを分離可能というメタメッセージになっているのではないか? これをどう伝えるか?を,河川の増水で流された人々の事例を取り上げている. 増水を知らせる掲示物などを導入しても,逃げない人々が今でもいるという.

みんなで作る災害情報ー「満点計画学習プログラム」ー

密な地震観測網を作るプロジェクトで,装置を学校に設置し,メンテナンスを学校が担うことで,メンテナンスコストの軽減や,防災教育に繋がった好例の紹介. 万葉箱の地震計バージョン.

「あのとき」を伝える災害情報ー生活習慣・痕跡・モニュメント・博物館ー

「災害史」も広義の災害情報である.

小説と災害ー<選択>と<宿命>をめぐってー

  • 災害を機に人生をやり直す.戸籍データが水没すればもしや…という思考実験が現実となる.
  • <宿命>の<選択>への変換とは,「危険」の「リスク」への変換と言い換えることもできる

テレビの中の防災ー「一代の英雄」/「地上の星」/「ストイックな交歓者」ー

  • その時歴史が動いた=ある人物の決断
  • プロジェクトX=高度経済成長,進むハードウェア対策
  • プロフェッショナル=自分のためという志向性,自分の目標に近づくストイックさ,交歓者=「溶け合う身体」の方向へ回帰しはじめ=個人主義に自足せず,それぞれの現場で,その時そこにいる人たちにしか体験できないことに喜びを感じ価値を見出している.

(3つめの解釈は疑問が残る)